Снежная страна (雪国) - страница 12

стр.

しかし目の前の蜻蛉の群は、なにか追いつめられたもののように見える。暮れるに先立って黒ずむ杉林の色にその姿を消されまいとあせっているもののように見える。

遠い山は西日を受けると、峰から紅葉して来ているのがはっきり分った。

「人間なんて脆いもんね。頭から骨まで、すっかりぐしゃぐしゃにつぶれてたんですって。熊なんか、もっと高い岩棚から落ちたって、体はちっとも傷がつかないそうよ」と、今朝駒子が言ったのを島村は思い出した。岩場でまた遭難があったという、その山を指ざしながらであった。

熊のように硬く厚い毛皮ならば、人間の官能はよほどちがったものであったにちがいない。人間は薄く滑らかな皮膚を愛し合っているのだ。そんなことを思って夕日の山を眺めていると島村は感傷的に人肌がなつかしくなって来た。

「蝶々とんぼやきりぎりす……」というあの歌を、早い夕飯時に下手な三味線で歌っている芸者があった。

山の案内書には、登路、日程、宿泊所、費用などが、簡単に書いてあるだけで、かえって空想を自由にしたし、島村が初めて駒子を知ったのも、残雪の肌に新緑の萌える山を歩いて、この温泉村へ下りて来た時のことだったし、自分の足跡も残っている山を、こうして眺めていると、今は秋の登山の季節であるから、山に心が誘われて行くのだった。無為徒食の彼には、用もないのに難儀して山を歩くなど徒労の見本のように思われるのだったが、それゆえにまた非現実的な魅力もあった。

遠く離れていると、駒子のことがしきりに思われるにかかわらず、さて近くに来てみると、なにか安心してしまうのか、今はもう彼女の肉体も親し過ぎるのか、人肌がなつかしい思いと、山に誘われる思いとは、同じ夢のように感じられるのだった。昨夜駒子が泊って行ったばかりだからでもあろう。しかし静かななかに一人坐っていては、呼ばなくても駒子も来そうなものだと、心待ちするよりしかたがなかったが、ハイキングの女学生達の若々しく騒ぐ声が聞えているうちに眠ろうと思って、島村は早くから寝た。

やがて時雨が通るらしかった。

翌る朝目をあくと、駒子が机の前にきちんと坐って本を読んでいた。羽織も銘仙の不断着だった。

「目が覚めた?」と、彼女は静かに言って、こちらを見た。

「どうしたんだい」

「目が覚めた?」

知らぬ間に来て泊っていたのかと疑って、島村が自分の寝床を見廻しながら、枕もとの時計を拾うとまだ六時半だった。

「早いんだね」

「だって、女中さんがもう火を入れに来たわよ」

鉄瓶は朝らしい湯気を立てていた。

「起きなさいよ」と、駒子は立って来て、彼の枕もとに坐った。ひどく家庭の女めいた素振りであった。島村は伸びをしたついでに、女の膝の上の手をつかんで小さい指の撥胼胝を弄びながら、

「眠いよ。夜があけたばかりじゃないか」

「一人でよく眠れた?」

「ああ」

「あんた、やっぱり髭をお伸しにならなかったのね」

「そうそう、この前別れる時、そんなこと言ってたね。髭を生やせって」

「どうせ忘れてたって、いいわよ。いつも青々ときれいに剃ってらっしゃるのね」

「君だって、いつでも白粉を落すと、今剃刀をあてたばかりという顔だよ」

「頬っぺたが、またお太りになったんじゃないかしら。色が白くて、眠ってらっしゃるところは髭がないと変だわ。円いわ」

「柔和でいいだろう」

「頼りないわ」

「いやだね。じろじろ見てたんだね」

「そう」と、駒子はにっこりうなずいてその微笑から急に火がついたように笑い出すと、知らず識らず彼の指を握る手にまで力が入って、

「押入に、隠れたのよ。女中さんちっとも気がつかないで」

「いつさ。いつから隠れてたんだ」

「今じゃないの? 女中さんが火を持って来た時よ」

そして思い出し笑いが止まらぬ風だったが、ふと耳の根まで赤らめると、それを紛らわすように掛蒲団の端を持って煽ぎながら、

「起きなさい。起きてちょうだい」

「寒いよ」と、島村は蒲団を抱えこんで、

「宿じゃもう起きてるのかい」

「知らないわ。裏から上って来たのよ」

「裏から?」

「杉林のところから掻き登って来たのよ」

「そんな路があるの?」

「路はないけれど、近いわ」

島村は驚いて駒子を見た。

「私が来たのを誰も知らないわ。お勝手に音がしてたけれど、玄関はまだしまってるんでしょう」

「君はまた早起きなんだね」

「昨夜眠れなかったのよ」

「時雨があったの知ってる?」

「そう? あすこの熊笹が濡れてたの、それでなのね。帰るわね。もう一寝入り、お休みなさいね」

「起きるよ」と、島村は女の手を握ったまま、勢いよく寝床を出た。そのまま窓へ行って、女が掻き登って来たというあたりを見下すと、灌木類の茂りの裾が猛々しく拡がっていた。それは杉林に続く丘の中腹で、窓のすぐ下の畑には、大根、薩摩芋、葱、里芋など、平凡な野菜ながら朝の日を受けて、それぞれの葉の色のちがいが初めて見るような気持であった。

湯殿へ行く廊下から、番頭が泉水の緋鯉に餌を投げていた。

「寒くなったとみえて、食いが悪くなりました」と、番頭は島村に言って、蚕の蛹を干し砕いた餌が水に浮んでいるのを、しばらく眺めていた。

駒子が清潔に坐っていて、湯から上って来た島村に、

「こんな静かなところで、裁縫してたら」

部屋は掃除したばかりで、少し古びた畳に秋の朝日が深く差しこんでいた。

「裁縫が出来るのか」

「失礼ね。きょうだいじゅうで、一番苦労したわ。考えてみると、私の大きくなる頃が、ちょうどうちの苦しい時だったらしいわ」と、ひとりごとのようだったが、急に声をはずませて、

「駒ちゃんいつ来たって、女中さんが変な顔してたわ。二度も三度も押入に隠れることは出来ないし、困っちゃった。帰るわね。いそがしいのよ。眠れなかったから、髪を洗おうと思ったの。朝早く洗っとかないと、乾くのを待って、髪結いさんへ行って、昼の宴会の間に合わないのよ。ここにも宴会があるけれど、昨夜になってしらせてよこすんだもの。よそを受けちゃった後で、来れやしない。土曜日だから、とてもいそがしいのよ。遊びに来れないわ」

そんなことを言いながら、しかし駒子は立ち上りそうもなかった。

髪を洗うのは止めにして、島村を裏庭へ誘い出した。さっきそこから忍んで来たのか、渡廊下の下に駒子の濡れた下駄と足袋があった。

彼女が掻き登ったという熊笹は通れそうもないので、畑沿いに水音の方へ下りて行くと、川岸は深い崖になっていて、栗の木の上から子供の声が聞えた。足もとの草のなかにも毬が幾つも落ちていた。駒子は下駄で踏みにじって、実を剥き出した。みんな小粒の栗だった。

向岸の急傾斜の山腹には萱の穂が一面に咲き揃って、眩しい銀色に揺れていた。眩しい色と言っても、それは秋空を飛んでいる透明な儚さのようであった。

「あすこへ行ってみようか、君のいいなずけの墓が見える」

駒子はすっと伸び上って島村をまともに見ると、一握りの栗をいきなり彼の顔に投げつけて、

「あんた私を馬鹿にしてんのね」

島村は避ける間もなかった。額に音がして、痛かった。

「なんの因縁があって、あんた墓を見物するのよ」

「なにをそう向きになるんだ」

「あれだって、私には真面目なことだったんだわ。あんたみたいに贅沢な気持で生きてる人とちがうわ」

「誰が贅沢な気持で生きてるもんか」と、彼は力なく呟いた。

「じゃあ、なぜいいなずけなんて言うの? いいなずけでないってことは、この前よく話したじゃないの? 忘れてんのね」

島村は忘れていたわけではない。

「お師匠さんがね、息子さんと私といっしょになればいいと、思った時があったかもしれないの。心のなかだけのことで、口には一度も出しゃしませんけれどね。そういうお師匠さんの心のうちは、息子さんも私も薄々知ってたの。だけど、二人は別になんでもなかった。別れ別れに暮して来たのよ。東京へ売られて行く時、あの人がたった一人見送ってくれた」

駒子がそう言ったのを覚えている。

その男が危篤だというのに、彼女は島村のところへ泊って、

「私の好きなようにするのを、死んで行く人がどうして止められるの?」と、身を投げ出すように言ったこともあった。

まして、駒子がちょうど島村を駅へ見送っていた時に、病人の様子が変ったと、葉子が迎えに来たにかかわらず、駒子は断じて帰らなかったために、死目にも会えなかったらしいということもあったので、なおさら島村はその行男という男が心に残っていた。

駒子はいつも行男の話を避けたがる。いいなずけではなかったにしても、彼の療養費を稼ぐために、ここで芸者に出たというのだから、「真面目なこと」だったにちがいない。

栗をぶっつけられても、腹を立てる風がないので、駒子は束の間訝しそうであったが、ふいと折れ崩れるように縋って来て、

「ねえ、あんた素直な人ね。なにか悲しいんでしょう」

「木の上で子供が見てるよ」

「分らないわ、東京の人は複雑で。あたりが騒々しいから、気が散るのね」

「なにもかも散っちゃってるよ」

「今に命まで散らすわよ。墓を見に行きましょうか」

「そうだね」

「それごらんなさい。墓なんかちっとも見たくないんじゃないの?」

「君の方でこだわってるだけだよ」

「私は一度も参ったことがないから、こだわるのよ、ほんとうよ、一度も。今はお師匠さんもいっしょに埋まってるんですから、お師匠さんにはすまないと思うけれど、いまさら参れやしない。そんなことしらじらしいわ」

「君の方がよっぽど複雑だね」

「どうして? 生きた相手だと、思うようにはっきりも出来ないから、せめて死んだ人にははっきりしとくのよ」

静けさが冷たい滴となって落ちそうな杉林を抜けて、スキイ場の裾を線路伝いに行くと、すぐに墓場だった。田の畦の小高い一角に、古びた石碑が十ばかりと地蔵が立っているだけだった。貧しげな裸だった。花はなかった。

しかし、地蔵の裏の低い木蔭から、不意に葉子の胸が浮び上った。彼女もとっさに仮面じみた例の真剣な顔をして、刺すように燃える目でこちらを見た。島村はこくんとおじぎをするとそのまま立ち止った。