Снежная страна (雪国) - страница 9

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「そんなに積るの」

「この先きの町の中学ではね、大雪の朝は、寄宿舎の二階の窓から、裸で雪へ飛びこむんですって。体が雪のなかへすぽっと沈んでしまって見えなくなるの。そうして水泳みたいに、雪の底を泳ぎ歩くんですって。ね、あすこにもラッセルがいるわ」

「雪見に来たいが正月は宿がこむだろうね。汽車は雪崩に埋れやしないか」

「あんた贅沢な人ねえ。そういう暮しばかりしてるの?」と、駒子は島村の顔を見ていたが、

「どうして髭をお伸しにならないの」

「うん。伸そうと思ってる」と、青々と濃い剃刀のあとをなでながら、自分の口の端には一筋みごとな皺が通っていて、柔かい頬をきりっと見せる、駒子もそのために買いかぶっているかもしれないと思ったが、

「君はなんだね、いつでも白粉を落すと、今剃刀をあてたばかりという顔だね」

「気持の悪い烏が鳴いてる。どこで鳴いてる。寒いわ」と、駒子は空を見上げて、両肘で胸脇を抑えた。

「待合室のストオヴにあたろうか」

その時、街道から停車場へ折れる広い道を、あわただしく駈けて来るのは葉子の山袴だった。

「ああっ、駒ちゃん、行男さんが、駒ちゃん」と、葉子は息切れしながら、ちょうど恐ろしいものを逃れた子供が母親に縋りつくみたいに、駒子の肩を掴んで、

「早く帰って、様子が変よ、早く」

駒子は肩の痛さをこらえるかのように目をつぶると、さっと顔色がなくなったが、思いがけなくはっきりかぶりを振った。

「お客さまを送ってるんだから、私帰れないわ」

島村は驚いて、

「見送りなんて、そんなものいいから」

「よくないわ。あんたもう二度と来るか来ないか、私には分りゃしない」

「来るよ、来るよ」

葉子はそんなことなにも聞えぬ風で、急き込みながら、

「今ね、宿へ電話をかけたの、駅だって言うから、飛んで来た。行男さんが呼んでる」と、駒子を引っぱるのに、駒子はじっとこらえていたが、急に振り払って、

「いやよ」

そのとたん、二、三歩よろめいたのは駒子の方であった。そして、げえっと吐気を催したが、口からはなにも出ず、目の縁が湿って、頬が鳥肌立った。

葉子は呆然としゃちこ張って、駒子を見つめていた。しかし顔つきはあまりに真剣なので、怒っているのか、驚いているのか、悲しんでいるのか、それが現われず、なにか仮面じみて、ひどく単純に見えた。

その顔のまま振り向くと、いきなり島村の手を掴んで、

「ねえ、すみません。この人を帰して下さい。帰して下さい」と、ひたむきな高調子で責め縋って来た。

「ええ、帰します」と、島村は大きな声を出した。

「早く帰れよ、馬鹿」

「あんた、なにを言うことあって」と、駒子は島村に言いながら彼女の手は葉子を島村から押し退けていた。

島村は駅前の自動車を指ざそうとすると、葉子に力いっぱい掴まれていた手先が痺れたけれども、

「あの車で、今すぐ帰しますから、とにかくあんたは先きに行ってたらいいでしょう。ここでそんな、人が見ますよ」

葉子はこくりとうなずくと、

「早くね、早くね」と、言うなり後向いて走り出したのは嘘みたいにあっけなかったが、遠ざかる後姿を見送っていると、なぜまたあの娘はいつもああ真剣な様子なのだろうと、この場にあるまじい不審が島村の心を掠めた。

葉子の悲しいほど美しい声は、どこか雪の山から今にも木魂して来そうに、島村の耳に残っていた。

「どこへ行く」と、駒子は島村が自動車の運転手を見つけに行こうとするのを引き戻して、

「いや。私帰らないわよ」

ふっと島村は駒子に肉体的な憎悪を感じた。

「君達三人の間に、どういう事情があるかしらんが、息子さんは今死ぬかもしれんのだろう。それで会いたがって、呼びに来たんじゃないか。素直に帰ってやれ。一生後悔するよ。こう言ってるうちにも、息が絶えたらどうする。強情張らないでさらりと水に流せ」

「ちがう。あんた誤解しているわ」

「君が東京へ売られて行く時、ただ一人見送ってくれた人じゃないか。一番古い日記の、一番初めに書いてある、その人の最後を見送らんという法があるか。その人の命の一番終りのペエジに、君を書きに行くんだ」

「いや、人の死ぬの見るなんか」

それは冷たい薄情とも、あまりに熱い愛情とも聞えるので、島村は迷っていると、

「日記なんかもうつけられない。焼いてしまう」と、駒子は呟くうちになぜか頬が染まって来て、

「ねえ、あんた素直な人ね。素直な人なら、私の日記をすっかり送ってあげてもいいわ。あんた私を笑わないわね。あんた素直な人だと思うけれど」

島村はわけ分らぬ感動に打たれて、そうだ、自分ほど素直な人間はないのだという気がして来ると、もう駒子に強いて帰れとは言わなかった。駒子も黙ってしまった。

宿屋の出張所から番頭が出て来て、改札を知らせた。

陰気な冬支度の土地の人が四、五人、黙って乗り降りしただけであった。

「フォウムへは入らないわ。さよなら」と、駒子は待合室の窓のなかに立っていた。窓のガラス戸はしまっていた。それは汽車のなかから眺めると、うらぶれた寒村の果物屋の煤けたガラス箱に、不思議な果物がただ一つ置き忘れられたようであった。

汽車が動くとすぐ待合室のガラスが光って、駒子の顔はその光のなかにぽっと燃え浮ぶかと見る間に消えてしまったが、それはあの朝雪の鏡の時と同じに真赤な頬であった。またしても島村にとっては、現実というものとの別れ際の色であった。

国境の山を北から登って、長いトンネルを通り抜けてみると、冬の午後の薄光りはその地中の闇へ吸い取られてしまったかのように、また古ぼけた汽車は明るい殻をトンネルに脱ぎ落して来たかのように、もう峰と峰との重なりの間から暮色の立ちはじめる山峡を下って行くのだった。こちら側にはまだ雪がなかった。

流れに沿うてやがて広野に出ると、頂上は面白く切り刻んだようで、そこからゆるやかに美しい斜線が遠い裾まで伸びている山の端に月が色づいた。野末にただ一つの眺めである。その山の全き姿を淡い夕映の空がくっきりと濃深縹色に描き出した。月はもう白くはないけれども、まだ薄色で冬の夜の冷たい冴えはなかった。鳥一羽飛ばぬ空であった。山の裾野が遮るものもなく左右に広々と延びて、河岸へ届こうとするところに、水力電気らしい建物が真白に立っていた。それは冬枯の車窓に暮れ残るものであった。

窓はスチイムの温気に曇りはじめ、外を流れる野のほの暗くなるにつれて、またしても乗客がガラスへ半ば透明に写るのだった。あの夕景色の鏡の戯れであった。東海道線などとは別の国の汽車のように使い古して色褪せた旧式の客車が三、四輛しか繋がっていないのだろう。電燈も暗い。

島村はなにか非現実的なものに乗って、時間や距離の思いも消え、虚しく体を運ばれて行くような放心状態に落ちると、単調な車輪の響きが、女の言葉に聞えはじめて来た。

それらの言葉はきれぎれに短いながら、女が精いっぱいに生きているしるしで、彼は聞くのがつらかったほどだから忘れずにいるものだったが、こうして遠ざかって行く今の島村には、旅愁を添えるに過ぎないような、もう遠い声であった。

ちょうど今頃は、行男が息を引き取ってしまっただろうか。なぜか頑固に帰らなかったが、そのために駒子は行男の死目にもあえなかっただろうか。

乗客は不気味なほど少かった。

五十過ぎの男と顔の赤い娘とが向い合って、ひっきりなしに話しこんでいるばかりだった。肉の盛り上った肩に黒い襟巻を巻いて、娘は全く燃えるようにみごとな血色だった。胸を乗り出して一心に聞き、楽しげに受け答えしていた。長い旅を行く二人のように見えた。

ところが、製糸工場の煙突のある停車場へ来ると、爺さんはあわてて荷物棚の柳行李をおろして、それを窓からプラットフォウムへ落しながら、

「まあじゃあ、御縁でもってまたいっしょになろう」と、娘に言い残して降りて行った。

島村はふっと涙が出そうになって、われながらびっくりした。それで一入、女に別れての帰りだと思った。

偶然乗り合わせただけの二人とは夢にも思っていなかったのである。男は行商人かなにかだろう。


蛾が卵を産みつける季節だから、洋服を衣桁や壁にかけて出しっぱなしにしておかぬようにと、東京の家を出がけに細君が言った。来てみるといかにも、宿の部屋の軒端に吊るした装飾燈には、玉蜀黍色の大きい蛾が六、七匹も吸いついていた。次の間の三畳の衣桁にも、小さいくせに胴の太い蛾がとまっていた。

窓はまだ夏の虫除けの金網が張ったままであった。その網へ貼りつけたように、やはり蛾が一匹じっと静まっていた。檜皮色の小さい羽毛のような触角を突き出していた。しかし翅は透き通るような薄緑だった。女の指の長さほどある翅だった。その向うに連る国境の山々は夕日を受けて、もう秋に色づいているので、この一点の薄緑はかえって死のようであった。前の翅と後の翅との重なっている部分だけは、緑が濃い。秋風が来ると、その翅は薄紙のようにひらひらと揺れた。

生きているのかしらと島村が立ち上って、金網の内側から指で弾いても、蛾は動かなかった。拳でどんと叩くと、木の葉のようにぱらりと落ちて、落ちる途中から軽やかに舞い上った。

よく見ると、その向うの杉林の前には、数知れぬ蜻蛉の群が流れていた。たんぽぽの綿毛が飛んでいるようだった。

山裾の川は杉の梢から流れ出るように見えた。

白萩らしい花が小高い山腹に咲き乱れて銀色に光っているのを、島村はまた飽きずに眺めた。

内湯から出て来ると、ロシア女の物売りが玄関に腰かけていた。こんな田舎まで来るのだろうかと、島村は見に行った。ありふれた日本の化粧品や髪飾などだった。

もう四十を出ているらしく顔は小皺で垢じみていたが、太い首から覗けるあたりが真白に脂ぎっている。

「あんたどこから来ました」と、島村が問うと、

「どこから来ました? 私、どこからですか」と、ロシア女は答えに迷って、店をかたづけながら考える風だった。