Танцовщица из Идзу (伊豆の踊子) - страница 3
「そうなさいましよ。せっかくお連れになっていただいて、こんな我儘を申しちゃすみませんけれど。明日は槍が降っても立ちます。明後日が旅で死んだ赤ん坊の四十九日でございましてね、四十九日には心ばかりのことを、下田でしてやりたいと前々から思って、その日までに下田へ行けるように旅を急いだのでございますよ。そんなこと申しちゃ失礼ですけれど、不思議なご縁ですもの、明後日はちょっと拝んでやってくださいましな」
そこで私は出立を延ばすことにして階下へおりた。皆が起きて来るのを待ちながら、汚い帳場で宿の者と話していると、男が散歩に誘った。街道を少し南へ行くと綺麗な橋があった。橋の欄干によりかかって、彼はまた身の上話を始めた。東京である新派役者の群れにしばらく加わっていたとのことだった。今でも時々大島の港で芝居をするのだそうだ。彼らの荷物の風呂敷から刀の鞘が足のようにはみ出していたのだったが、お座敷でも芝居の真似をして見せるのだと言った。柳行李の中はその衣裳や鍋茶碗なぞの世帯道具なのである。
「私は身を誤った果てに落ちぶれてしまいましたが、兄が甲府で立派に家の後目を立てていてくれます。だから私はまあいらない体なんです」
「私はあなたが長岡温泉の人だとばかり思っていましたよ」
「そうでしたか。あの上の娘が女房ですよ。あなたより一つ下、十九でしてね、旅の空で二度目の子供を早産しちまって、子供は一週間ほどして息が絶えるし、女房はまだ体がしっかりしないんです。あの婆さんは女房の実のおふくろなんです。踊子は私の実の妹ですが」
「へえ。十四になる妹があるっていうのは――」
「あいつですよ。妹にだけはこんなことをさせたくないと思いつめていますが、そこにはまたいろんな事情がありましてね」
それから、自分が栄吉、女房が千代子、妹が薫ということなぞを教えてくれた。もう一人の百合子という十七の娘だけが大島生まれで雇いだとのことだった。栄吉はひどく感傷的になって泣き出しそうな顔をしながら河瀬を見つめていた。
引き返して来ると、白粉を洗い落した踊子が路ばたにうずくまって犬の頭を撫でていた。私は自分の宿に帰ろうとして言った。
「遊びにいらっしゃい」
「ええ。でも一人では……」
「だから兄さんと」
「直ぐに行きます」
まもなく栄吉が私の宿へ来た。
「皆は?」
「女どもはおふくろがやかましいので」
しかし、二人がしばらく五目並べをやっていると、女たちが橋を渡ってどんどん二階へ上がって来た。いつものように丁寧なお辞儀をして廊下に坐ったままためらっていたが、一番に千代子が立ち上がった。
「これは私の部屋よ。さあどうぞご遠慮なしにお通りください」
一時間ほど遊んで芸人たちはこの宿の内湯へ行った。一緒にはいろうとしきりに誘われたが、若い女が三人もいるので、私は後から行くとごまかしてしまった。すると踊子が一人すぐに上がって来た。
「肩を流してあげますからいらっしゃいませって、姉さんが」と、千代子の言葉を伝えた。
湯には行かずに、私は踊子と五目を並べた。彼女は不思議に強かった。勝継ぎをやると、栄吉や他の女は造作なく負けるのだった。五目ではたいていの人に勝つ私が力いっぱいだった。わざと甘い石を打ってやらなくともいいのが気持よかった。二人きりだから、初めのうち彼女は遠くの方から手を伸して石をおろしていたが、だんだん我を忘れて一心に碁盤の上へ覆いかぶさって来た。不自然なほど美しい黒髪が私の胸に触れそうになった。突然、ぱっと紅くなって、
「ごめなさい。叱られる」と石を投げ出したまま飛び出して行った。共同湯の前におふくろが立っていたのである。千代子と百合子もあわてて湯から上がると、二階へは上がって来ずに逃げて帰った。
この日も、栄吉は朝から夕方まで私の宿に遊んでいた。純樸で親切らしい宿のおかみさんが、あんな者にご飯を出すのはもったいないと言って、私に忠告した。
夜、私が木賃宿に出向いて行くと、踊子はおふくろに三味線を習っているところだった。私を見るとやめてしまったが、おふくろの言葉でまた三味線を抱き上げた。歌う声が少し高くなるたびに、おふくろが言った。
「声を出しちゃいけないって言うのに」
栄吉は向かい側の料理屋の二階座敷に呼ばれて何か唸っているのが、こちらから見えた。
「あれはなんです」
「あれ――謡ですよ」
「謡は変だな」
「八百屋だから何をやり出すかわかりゃしません」
そこへこの木賃宿の間を借りて鳥屋をしているという四十前後の男が襖を明けて、ご馳走をすると娘たちを呼んだ。踊子は百合子と一緒に箸を持って隣りの間へ行き、鳥屋が食べ荒した後の鳥鍋をつついていた。こちらの部屋へ一緒に立って来る途中で、鳥屋が踊子の肩を軽く叩いた。おふくろが恐ろしい顔をした。
「こら。この子に触っておくれでないよ。生娘なんだからね」
踊子はおじさんおじさんと言いながら、鳥屋に「水戸黄門漫遊記」を読んでくれと頼んだ。しかし鳥屋はすぐに立って行った。続きを読んでくれと私に直接言えないので、おふくろから頼んで欲しいようなことを、踊子がしきりに言った。私は一つの期待を持って講談本を取り上げた。はたして踊子がするすると近寄って来た。私が読み出すと、彼女は私の肩に触るほどに顔を寄せて真剣な表情をしながら、眼をきらきらと輝かせて一心に私の額をみつめ、瞬き一つしなかった。これは彼女が本を読んで貰う時の癖らしかった。さっきも鳥屋とほとんど顔を重ねていた。私はそれを見ていたのだった。この美しく光る黒眼がちの大きい眼は踊子のいちばん美しい持ちものだった。二重瞼の線が言いようなく綺麗だった。それから彼女は花のように笑うのだった。花のように笑うと言う言葉が彼女にはほんとうだった。
まもなく、料理屋の女中が踊子を迎えに来た。踊子は衣裳をつけて私に言った。
「すぐ戻って来ますから、待っていて続きを読んで下さいね」
それから廊下に出て手を突いた。
「行って参ります」
「決して歌うんじゃないよ」とおふくろが言うと、彼女は太鼓を提げて軽くうなずいた。おふくろは私を振り向いた。
「今ちょうど声変りなんですから――」
踊子は料理屋の二階にきちんと坐って太鼓を打っていた。その後姿が隣り座敷のことのように見えた。太鼓の音は私の心を晴れやかに踊らせた。
「太鼓がはいるとお座敷が浮き立ちますね」とおふくろも向こうを見た。
千代子も百合子も同じ座敷へ行った。
一時間ほどすると四人一緒に帰って来た。
「これだけ……」と、踊子は握り拳からおふくろの掌へ五十銭銀貨をざらざら落した。私はまたしばらく「水戸黄門漫遊記」を口読した。彼らはまた旅で死んだ子供の話をした。水のように透き通った赤ん坊が生まれたのだそうである。泣く力もなかったが、それでも一週間息があったそうである。
好奇心もなく、軽蔑も含まない、彼らが旅芸人という種類の人間であることを忘れてしまったような、私の尋常な好意は、彼らの胸にも沁み込んで行くらしかった。私はいつのまにか大島の彼らの家へ行くことにきまってしまっていた。
「爺さんのいる家ならいいね。あすこなら広いし、爺さんを追い出しとけば静かだから、いつまでいなさってもいいし、勉強もおできなさるし」なぞと彼ら同士で話し合っては私に言った。
「小さい家を二つ持っておりましてね、山の方の家は明いているようなものですもの」
また正月には私が手伝ってやって、波浮の港で皆が芝居をすることになっていた。
彼らの旅心は、最初私が考えていたほどせちがらいものでなく、野の匂いを失わないのんきなものであることも、私にわかって来た。親子兄弟であるだけに、それぞれ肉親らしい愛情で繋り合っていることも感じられた。雇女の百合子だけは、はにかみ盛りだからであるが、いつも私の前でむっつりしていた。
夜半を過ぎてから私は木賃宿を出た。娘たちが送って出た。踊子が下駄を直してくれた。踊子は門口から首を出して、明るい空を眺めた。
「ああ、お月さま。――明日は下田、嬉しいな。赤ん坊の四十九日をして、おっかさんに櫛を買って貰って、それからいろんなことがありますのよ。活動へ連れて行ってくださいましね」
下田の港は、伊豆相模の温泉場なぞを流して歩く旅芸人が、旅の空での故郷として懐しがるような空気の漂った町なのである。
五
芸人たちはそれぞれに天城を越えた時と同じ荷物を持った。おふくろの腕の輪に小犬が前足を載せて旅馴れた顔をしていた。湯が野を出はずれると、また山にはいった。海の上の朝日が山の腹を温めていた。私たちは朝日の方を眺めた。河津川の行く手に河津の浜が明るく開けていた。
「あれが大島なんですね」
「あんなに大きく見えるんですもの、いらっしゃいましね」と踊子が言った。
秋空が晴れすぎたためか、日に近い海は春のように霞んでいた。ここから下田まで五里歩くのだった。しばらくの間海が見え隠れしていた。千代子はのんびりと歌を歌い出した。
途中で少し険しいが、二十町ばかり近い山越えの間道を行くか、楽な本街道を行くかと言われた時に、私はもちろん近路を選んだ。
落葉で辷りそうな胸先上がりの木下路だった。息が苦しいものだから、かえってやけ半分に私は膝頭を掌で突き伸ばすようにして足を早めた。見る見るうちに一行は遅れてしまって、話し声だけが木の中から聞こえるようになった。踊子が一人裾を高く掲げて、とっとっと私について来るのだった。一間ほどうしろを歩いて、その間隔を縮めようとも伸そうともしなかった。私が振り返って話しかけると、驚いたように微笑みながら立ち止まって返事をする。踊子が話しかけた時に、追いつかせるつもりで待っていると、彼女はやはり足を停めてしまって、私が歩き出すまで歩かない。路が折れ曲っていっそう険しくなるあたりからますます足を急がせると、踊子は相変わらず一間うしろを一心に登って来る。山は静かだった。ほかの者たちはずっと遅れて話し声も聞こえなくなっていた。